「ぜんぶ、フィデルのせい」

ラストシーン、カメラが俯瞰でアンナをとらえているシーンに涙が止まらなかった。

監督はジュリー・ガブラス(父親はコスタ・ガブラス)。



原作はイタリアの作家ドミティッラ・カラマイの「TUTTA COLPA DI FIDEL」。ジュリー・ガブラスは映画化にあたって原作とは設定を変えているということである。原作ではローマが舞台だったが、映画では舞台をパリに変更して、アジェンデ政権の誕生と崩壊の3年間に設定している。


これがまた絶妙である。アジェンデ政権崩壊直後のチリを舞台にした父コスタ・ガブラスの「ミッシング」をどうしても思い起こさずにはいられない。ピノチェトのクーデター直後のチリで行方不明になった息子を探すためにアメリカからやってきた父親(ジャック・レモン)と息子の嫁(シシー・スペイシク)が息子の死の真実をつきとめていく話だった。ガチガチの保守で息子や嫁の考えを理解しようとはしなかった父親が、だんだんと息子がやろうとしていたことが意味のあることだと理解し、その妻と心を通わせていった。


「ミッシング」では父親が息子や嫁を理解していく過程を描いていたが、この「ぜんぶ、フィデルのせい」は、突然キョーサン主義に目覚めてしまったパパとママに戸惑い、怒り、不満爆発の娘アンナが、何故?どうして?を繰り返しながらアンナなりに考え、変化した大人たちや、変化した環境を抵抗しながらも受け入れていく過程だった。


ひとつひとつのエピソードが上手い。環境の変化に伴い家にやってくるお手伝いさんが変わっていくのだ。最初の大きな家にはキューバ革命で逃げ出してきたキューバ人のおばさんだったが、それがギリシャから亡命したきた女性に代わり、最後はベトナムの女性に代わっていった。彼女らから聞くギリシャ神話やベトナムの蛙の話は、通っているカトリックの小学校では決して教わらないことである。アジェンデ支援活動をしている父のもとへ夜になると支援グループの髭のおじさんたちがやってくる。そんな彼らから「君のお父さんはひとつのオレンジをみんなで分けあおうという考えなんだよ」と富の公平分配について説明される。そういえば冒頭のシーンでは結婚式のテーブルで子どもたちが果物をひとつ丸ごとそれぞれのお皿にのせて、どうやってマナーに沿って美しく食べるかというのをやっていた。アンナはおじさんが分けてくれたオレンジの一房を食べる。それ以上の説明はないのだけれど、このエピソードがアンナの心にどんなさざなみを起こしたんだろうということは想像できる。


パパやママは自分たちの考えを説明してくれるけれど無理にアンナに押し付けたりはしない。アンナは自分で考え、理解していく。大人の理不尽さに怒りながら。でも、大人たちだって、自信満々に自分の考えに沿って行動しているわけじゃない。そんな大人たちの不安や恐れもアンナはちゃんと感じ取っている。そこの描き方が素晴らしいと思う。ラスト近く、1973年9月11日のアジェンデの最後のラジオ放送を聞いている父親の手をそっと握るアンナには号泣させられてしまった。


アジェンデの時代は監督のジュリー・ガブラスにとっても特別な意味のある時代だったのだと思う。
アンナとアンナの父にガブラス親子がどうしても重なってしまってしょうがなかった。
それ以外にも映画をみながら他の映画のことが思い出されてしょうがなかった。


戒厳令下チリ潜入記

や、「イル・ポスティーノ」

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「サンチャゴに雨が降る」

なんやかや。。。。

今年度ベスト1だと思う。まだ2月だけれど。
もう一度みたい。